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HIWATT HISTORY (02)

2015/04/27

■SOUND CITY and HIWATT


 67年からデイヴ・リーヴスは「サウンド・シティー」ブランドのために100Wのアンプ・ヘッドを製造するようになります。その最初のモデル、サウンド・シティーONE HUNDREDと名付けられたアンプは、後に名機として名高いハイワットDR103とほぼ同じものでした。4インプットで2チャンネル、マスター・ボリュームを搭載、そしてパートリッジ・トランスを採用しミリタリー・スペックで製造されたそのアンプは、まさに後の「DR103」の雛形と言えるでしょう。この初期サウンド・シティーONE HUNDREDはブレイク前のジミ・ヘンドリックスがステージで使用していたことも残された写真から確認できますが、現在では「マーク1」という愛称で親しまれるマニア垂涎のレア・アンプです。


 デイヴ・リーヴスが製造を担ったサウンド・シティーのアンプには、シャーシの中に「HIWATT AMPLIFIER / MADE IN ENGLAND BY HYLIGHT ELECTRONICS」というステッカーが貼ってあります。この100Wモデルはその後「L100/B100」等とモデル名を変えつつも、基本設計やデザインはそのまま変わりがありません。
 実はこのことが理由で、現在でも「サウンド・シティーは後にハイワットとなる前身ブランドだ」という、ちょっとした誤解を生じる元となっています。サウンド・シティー製アンプの中でもデイヴ・リーヴスが製造に関わったものは100Wアンプヘッドのみ(本人が製造を手がけたのは67年の一時期のみ)で、他のモデルにはデザインにも製造にも関わっていません。

 余談となりますが、66・7年頃にサウンド・シティー/ダラス・アービター社周辺に集まっていたエンジニア達は、興味深い面々が揃っていました。後にハイワットで名を馳せるデイヴ・リーヴスはもちろんですが、彼のアシスタントとして一緒にアンプの製造工程に従事していたのはあのデニス・コーネルでした。70年代から現在に至るまで、多くの著名ギタリストの機材を手がけるデニス・コーネルですが、彼をこの道へ引きずり込んだのはブライアン・ハッカーという人物でした。彼は(デイヴ・リーヴスらと共に)サウンド・シティーのアンプ・デザインを担当した技師であり、デニス・コーネルが「師匠」と呼ぶ人です。そんな経緯でデニス・コーネルもデイヴ・リーヴスが編み出した「ミリタリー・スペックのアンプ・ワイアリング」を学びました(ちなみにデニス・コーネルはその後70年代になってからのVOXアンプを多数開発・製造してもいます。これは70年代になってダラス・アービター社がVOXの商標を獲得したため)。

 前記したように、サウンド・シティーのアンプ製造契約で得た資金を手に、デイヴ・リーヴスは自宅ガレージにて自身の「ハイワット」というアンプ・ブランドをスタートさせることにします。彼が最初に「ハイワット」名義のアンプを売りに出したのは66年のことで、これは上記のサウンド・シティー・アンプの製造よりやや前にあたりますが、当初は(現在見慣れた白黒のロゴパネルではなく)プレキシパネルに小文字で「hi-watt」とサインを入れたロゴパネルを使用していました。

■ハイワット「100Wヘッド」とハリー・ジョイス


 その後、ハイワットから100Wヘッドの名器「DR103」が登場となります。最も初期のハイワット・ユーザーとして知られているのが、ジェスロ・タル(写真05)というバンドのベーシスト、グレン・コーニック(残念ながら彼は2014年に他界しました)です。68年にデビューしたジェスロ・タルは当時隆盛を誇ったトラッドな香り高いブリティッシュ・プログレッシヴ・バンドですが、彼らが69年1月にロイヤル・アルバート・ホールで行なったコンサート、またその後行なったアメリカ・ツアーでも、グレン・コーニックはハイワットの100Wアンプヘッドを2台使いしていて、それらの写真はコーニックの公式HP(http://www.cornick.org)でも確認できます。


 また、ブリティッシュ・プログレッシヴという世界で忘れることのできないハイワット・ユーザーに、キング・クリムゾンのロバート・フリップがいます。フリップは74年にクリムゾンが解散するまでずっとハイワット・アンプを使い続けましたが、彼の使用機材に関しては別項にて詳しく紹介しようと思います。

 そして、ハイワット・ブランドを世に広めるのに大きく貢献した人物、それは間違いなくピート・タウンゼンド(ザ・フー)でしょう。1967年にサウンド・シティー・ブランドの100Wアンプヘッドを7台購入したピート(ちなみに翌68年にはベースのジョン・エントウィッスルもサウンド・シティーのアンプヘッドを導入しています)でしたが、彼はそのアンプの導入直後にこの100Wアンプ・ヘッドのカスタマイズをデイヴ・リーヴスにオーダーしています。このカスタマイズを行なった際にデイヴ・リーヴスはそのサウンド・シティーのアンプヘッドの前面に「HIWATT」のロゴパネルを張っています。このカスタマイズ・アンプヘッド、そして同じくHIWATTのロゴが張られたキャビネットを大量にステージの後方に詰んだザ・フーのステージは音盤化され『LIVE AT LEEDS』(70年)という歴史的名盤となりました。ピート・タウンゼンドが使用したこのアンプに関しても、別項にて詳細を後述したいと思います。
 イギリスのミュージシャンだけでなく、イギリスを訪れたアメリカのミュージシャンの間でもハイワットのアンプは話題となったそうです。当時イギリスのステージ・マネージメントを数多く手がけたピーター・ウェバーという人物が、ステージに上がるミュージシャン達にハイワットの製品を強く勧めた、というきっかけによるものですが、まずはじめにイギリス中のライヴハウスやミュージカル・ホールの常設アンプとしてハイワットが採用され、またそれを経験したプロのミュージシャンが皆こぞってハイワットのアンプを購入した、という経緯でした。


 ここで、当然のようにある問題が発生します。職人一人ではとても製造が追いつかないほどのオーダー数が来るようになってしまった、という嬉しい悲鳴です。そこでデイヴ・リーヴスは、ハイワットのために製造を手伝ってくれるスタッフ探しに奔走しました。

 1971年の初頭、デイヴ・リーヴスはハリー・ジョイスという電子技師と出会います。ハリーはそれまで英国海軍のための電子部品を製造し、軍に卸すという仕事をしていましたが、彼が「絶対に妥協しない」というガンコ者だったため(笑)、納期や製造数にウルサい軍からケムタがられてその仕事からホサれてしまっていた、という時期でした。
 ハリー・ジョイスの工房には専門学校を出て間もない若い電気技師が数名在籍しており、彼らはハリー・ジョイスから「ミリタリー・スペックで」「妥協を許さないクオリティーの回路」を製造するのにうってつけだったとも言えます。
 そこでデイヴ・リーヴスは彼にハイワット・アンプの内部シャーシの製造を委託することにします。この時ハリー・ジョイスは「このクオリティーを保つためには、月に40ケ以下しか作れない」と言ったそうですが、デイヴ・リーヴスはその製造数にも納得・同意しています。こうしてデイヴ・リーヴスとハリー・ジョイスという2人の才能あふれる(そして頑なにガンコな)アンプ技師が手を組む事となりました。(この項続く)

筆者紹介

TATS
(BUZZ THE FUZZ

ミック・ロンソンに惚れてから、延々とTONE BENDERの魔界を彷徨う日々を送る、東京在住のギター馬鹿。ファズ・ブログ「BUZZ THE FUZZ」主筆。スペインMANLAY SOUNDとの共同開発で各種TONE BENDERのクローン・ペダルを企画・発売すると同時に、英JMI~BRITISH PEDAL COMPANYでのTONE BENDER復刻品の企画・発売にも協力。季刊誌「THE EFFECTOR BOOK」(シンコーミュージック刊)ではデザインを担当。

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