
67年からデイヴ・リーヴスは「サウンド・シティー」ブランドのために100Wのアンプ・ヘッドを製造するようになります。その最初のモデル、サウンド・シティーONE HUNDREDと名付けられたアンプは、後に名機として名高いハイワットDR103とほぼ同じものでした。4インプットで2チャンネル、マスター・ボリュームを搭載、そしてパートリッジ・トランスを採用しミリタリー・スペックで製造されたそのアンプは、まさに後の「DR103」の雛形と言えるでしょう。この初期サウンド・シティーONE HUNDREDはブレイク前のジミ・ヘンドリックスがステージで使用していたことも残された写真から確認できますが、現在では「マーク1」という愛称で親しまれるマニア垂涎のレア・アンプです。
その後、ハイワットから100Wヘッドの名器「DR103」が登場となります。最も初期のハイワット・ユーザーとして知られているのが、ジェスロ・タル(写真05)というバンドのベーシスト、グレン・コーニック(残念ながら彼は2014年に他界しました)です。68年にデビューしたジェスロ・タルは当時隆盛を誇ったトラッドな香り高いブリティッシュ・プログレッシヴ・バンドですが、彼らが69年1月にロイヤル・アルバート・ホールで行なったコンサート、またその後行なったアメリカ・ツアーでも、グレン・コーニックはハイワットの100Wアンプヘッドを2台使いしていて、それらの写真はコーニックの公式HP(http://www.cornick.org)でも確認できます。

イギリスのミュージシャンだけでなく、イギリスを訪れたアメリカのミュージシャンの間でもハイワットのアンプは話題となったそうです。当時イギリスのステージ・マネージメントを数多く手がけたピーター・ウェバーという人物が、ステージに上がるミュージシャン達にハイワットの製品を強く勧めた、というきっかけによるものですが、まずはじめにイギリス中のライヴハウスやミュージカル・ホールの常設アンプとしてハイワットが採用され、またそれを経験したプロのミュージシャンが皆こぞってハイワットのアンプを購入した、という経緯でした。
1971年の初頭、デイヴ・リーヴスはハリー・ジョイスという電子技師と出会います。ハリーはそれまで英国海軍のための電子部品を製造し、軍に卸すという仕事をしていましたが、彼が「絶対に妥協しない」というガンコ者だったため(笑)、納期や製造数にウルサい軍からケムタがられてその仕事からホサれてしまっていた、という時期でした。TATS
(BUZZ THE FUZZ)
ミック・ロンソンに惚れてから、延々とTONE BENDERの魔界を彷徨う日々を送る、東京在住のギター馬鹿。ファズ・ブログ「BUZZ THE FUZZ」主筆。スペインMANLAY SOUNDとの共同開発で各種TONE BENDERのクローン・ペダルを企画・発売すると同時に、英JMI~BRITISH PEDAL COMPANYでのTONE BENDER復刻品の企画・発売にも協力。季刊誌「THE EFFECTOR BOOK」(シンコーミュージック刊)ではデザインを担当。